家出して橋の下で野宿した話

高校3年の夏の終わりに家出して1週間橋の下で野宿したことがあります。

ま、その頃は寮に入ってたので正確には家出ではなく“寮出”と言うべきですが。

行き先は決まっていました。
福島県の郡山です。

なぜ郡山に行ったかというと、その年の夏休みに「郡山ワンステップフェスティバル」という伝説の野外ロックコンサートがあり(内田裕也、キャロル、サディスティック・ミカバンド、上田正樹等々当時の有名ミュージシャン多数出演)、それを友達と見に行って、一晩阿武隈川の土手でたくさんのヒッピーまがいの人達と野宿したのが忘れられなかったのです。

郡山に着き、しばらく街をぶらついて暗くなってから川に向かいました。
そして雨が降ってもいいように大きい橋の下にねぐらを決めて寝袋を出しました。
俺は高校入ってから1年間だけワンダーフォーゲル部にいたので寝袋を持ってたのです。

辺りは真っ暗。
時々橋の上を通る車のライトが斜めに川を照らします。
ロックコンサートを見た時は大勢の人が土手に寝ていましたが、その時は一人ぼっち。
でも寂しいとか怖いとか、そんな思いは全然無かったです。
若さはバカさですね。
今思い出すとゾッとします。
暴漢に襲われたら下手すりゃ命落としますよね。

橋の下で寝袋にくるまっていたら頭の中に荒井由実の「ひこうき雲」のメロディーが流れてきました。
その年、よく行く喫茶店でしょっちゅうそのレコードが流れていて何回も聴いたのですっかり覚えてしまったのです。
ひこうき雲~曇り空~恋のスーパーパラシューター......。
だいたいその辺から夢の世界に落ちましたね。

朝起きて寝袋しまって、川で顔を洗って、昼間は街をぶらついたりロックコンサートが行われた開成山公園に行ったりして夕方になると郡山の駅に行って待ち合い室の椅子に座りテレビを見て過ごしました。
そしてテレビが消される時間になるとまた阿武隈川の橋の下に戻って寝袋を広げ寝る。
そんな何日間を過ごしました。

食う物といえば食パンです。
8枚入りの食パンを買い、1日に3枚か4枚何もつけずに食うのです。
今と違ってその頃は食い意地張ってなかったので、というより旨い物食いたいという欲求などなく、とにかく何か腹に納めなきゃ、という思いで食ってました。
でもさすがに食パンだけじゃ栄養が足りなくて身体おかしくなりそうだなと思ったので生卵を2つ買ってそれを飲みました。
後は当時コーラが好きだったので瓶入りのコーラを1日に5本位飲みました。
結局コーラ代が一番高かった。
あ、あとセブンスターを一箱。

野宿生活5日目の晩に、いつものように郡山の駅でテレビを見ていたら男の人に声を掛けられました。
今思えば20代半ばから後半位だったかな?
ワイシャツ姿のサラリーマン風な人でした。
その人から、昨日もおとといも居たな、家出してきたのか?と聞かれたので、素直にそうです、と答えたら、説教するつもりなのかと思いきや、飯食ってないんだろう?なんか食わしてやる、と言われ居酒屋に連れて行かれました。
好きなの食え、と言われ、確か記憶では焼きうどん食ったような気が......。
その人は酒を飲み、俺はコーラ。
なんていい人なんだろう、と思いました。

そして今晩泊めてやるからと言われてその人のアパートに行きました。
久々にシャワー浴びさせてもらい、眠くなったので先に寝させてもらいました。
その人の広いベッドに横になりすぐに寝てしまいました。

夜中、何か違和感を感じて目が覚めました。

あろうことか隣で寝ていたその人が俺の下半身を触っていたのです。
心臓が止まりそうなほどビックリしたのですが、なぜか俺の身体は硬直状態で動くことが出来ませんでした。
金縛り状態です。
頭の中で、このままじゃヤバい....でも一宿一飯の恩義.....いやいやいや.....。
葛藤渦巻く18歳。

この辺の詳細描写は書きません。

いや書けません(笑)。

でも結果的には“貞節は守りました!”。

ほんとです。

昭和49年、18歳になったばかりの「ひと夏の体験」でした。

知らないおじさんとの同居生活

初めての下宿先は結局半年ほど居て新しい下宿先に引っ越しました。

出ていくしかなかったのです。

下宿先のおばちゃんと顔を合わせると、うちじゃろくなお世話が出来ないからいい所有ったら移っていいんだからねってなことばかり言う。
なんでそんなこと言うんだろう?と考えたら、どうも俺の下宿話は元々知り合いだったここの家のおじさんと俺の親父とで勝手に決めた話で奥さんには言ってなかったんじゃないかと思うのです。
おばちゃんはどこの誰だかわからない他人を下宿させる気など無かったに違いない。
まだこれが真面目で大人しいガキンチョならともかく、ヘラヘラしてて夜出歩くようなガキンチョなど嫌だったのだと思う。

そう考えたら「どっかいい所有ったら」が「さっさと出ていけ」としか聞こえず、さすがに俺も嫌になって母親に言って新しい下宿先を探してもらいました。

そんなわけで1年生の途中から次の下宿に移りました。

新しい下宿先は一般の家ではなく、バツイチの肝っ玉おばちゃんが一人で切り盛りする下宿屋でした。

母屋におばちゃんが一人で住んでて、下宿人は同じ敷地内にある離れの建物に住んでました。
2階に3部屋、1階に2部屋有って、俺はそこの2階の六畳間に住むことになりました。

でも、その部屋.....一人じゃないんです。

今じゃとても考えられないことですが、そこの下宿屋は6畳間の部屋に二人ずつ住むのが基本で、俺は50代のおじさんと寝起きを共にすることになったのです。

もちろんまったく知らない他人です。

その方、確か市役所の関係先に勤める公務員の方でとても真面目な方でした。
酒もタバコもやらない方で部屋ではもっぱら本を読んでましたね。
6畳間の間にカーテンの仕切りとかが有るわけではないので同じ空間の中でそれぞれが思い思いに夜を過ごす。
今だったら気が狂いそうな話ですよね。

唯一1人でいられる時間は俺が学校から帰ってからおじさんが帰って来るまでの数時間です。
おじさん帰ってきたら屁もこけないし、大好きなロックミュージックも聴けない(その時にはポータブルプレイヤー?かな、持ってました)。
一応ヘッドホンで聴くのですが安いヘッドホンなので音漏れがするのです。
ある時ヘッドホンを耳から外したらおじさんが俺のことを見ています。
そして「その音楽誰れなの?」と聞くので「レッドツェッペリンていうバンドです」と答えたら「ふーん、なかなか元気がいい音楽だね」と笑いながら言うのですが、笑いながらも明らかに困惑した顔をしていて、あー、こりゃうるさいんだ、と気付いて、そうなると俺も気を使って、なかなか音楽が聴けなくなりました。

屁もこけない。
レッドツェッペリンも聴けない。
ましてや夜の「青春の一人作業」など出来ようはずもなく悶々としたまま眠りにつくのだ。
(その為に平凡パンチのヌードグラビア持ってたのに......)

この時、15歳から16歳になろうかという時。

あー、辛かったなあ!

話、続きます。

ではまた。



Led Zeppelin - Heartbreaker (Official Audio)

下宿先ではつかねずみを飼う

高校に入学して最初に下宿した先はごく普通の一般家庭です。
1階が茶の間と夫婦の寝室で、2階が二部屋有って一部屋がそこの家の当時中学生だった一人息子の部屋。そしてもうひとつある6畳間が俺にあてがわれました。

勉強机と引き出しが4つある安いタンス、布団一式、学生服と私服が少しだけ。
それが俺の持ち物の全てでした。
あ、あと教科書もあった。忘れてた。

ある時いつものように街をあっぽらかっぽらしてたらはつかねずみを売っているのを見てどうにも欲しくなり2匹購入した。
下宿先のおばちゃんに見つからないように部屋に持ち帰り、4段有るタンスの引き出しのひとつを開けて新聞紙を敷いてそこに入れた。

友達が出来た。それも2人.....いや2匹。

そうだ友達に名前を付けようと思い考えた。
いろいろ考えて、結局付けた名前は「フィフィ」と「ジュン」。
当時好きだった芸能人の名前を付けたのです。
フィフィは欧陽菲菲で、ジュンは五十嵐淳です。

五十嵐淳さん、後に淳子と改名しました。そして中村雅俊さんの奥さんになりましたね。
昔「日曜8時笑っていただきます」とかいう番組があって(確か堺正章さん出てたと思います)、それに出てた五十嵐淳さん見て、この世のものとは思えないほどの可愛さでノックアウトされてしまったのです。ほんと可愛かったです。
欧陽菲菲は「雨の御堂筋」が好きだったのとパワーがあって面白くて、そしてちょっとエロいとこ好きでした。
俺は男だけの兄弟の末っ子だったので、あんな姉ちゃんいたらいいなあ、と思ってました。

タンスの引き出しの中で動き回るフィフィとジュンを見るのはとても楽しかった。
(今考えるとよく下宿のおばちゃんに見つからなかったな。もし見つかってたら大変だった)

で、そのうちにフィフィとジュンを友達に見せたくなって、ある日学校に連れて行きました。
休み時間に友達に見せて散々自慢して、授業中は自分のロッカーに隠しておきました。
そして帰る時になってロッカーを開けたら... ...フィフィとジュン.....居ません。
焦って友達にも頼んであちこち探したのですが見つかりません。
結局その後も見つからなくて「逃げちまったんだ」と自分の愚かさを嘆きつつあきらめて数日経った後、隣の人が何か落としたのかどうかはわかりませんがロッカーを動かしたらロッカーの外側の奥に居たんです。はつかねずみが。
なんと、ペシャンコになって干からびていました。
「オーマイガー!」です。
隣のロッカーと壁の隙間に隠れていたのをロッカーがずれた時に隣の人が押したんでしょうね。
ほんとに可哀想ななことをしてしまいました。
いい気になって学校に連れていったのが間違いでした。
後悔してもしきれない、ほんと馬鹿でした。

結局ペシャンコになったのがフィフィなのかジュンなのかはわかりませんでした。
もう1匹はその後も見つからなかったのできっとどこかで生きていることでしょう。
いや生きてるわけないか。

48年前、昭和47年の多分6月位のことですからね。



AEAH73 雨の御堂筋③ 欧陽菲菲 (1971)1971・160917 Ver4L HD

昭和47年「青春の詩」

昭和47年、15歳で親元を離れ宮城県の小都会の高校に進学。
他人の家での下宿生活にもすぐに慣れ、さっそく街をあっぽらかっぽらと歩き回る日々。

当時、洋楽ポップスやロックミュージックに興味を持っていた俺は「音楽喫茶」という看板を見つけ中に入ると大音量のロックが掛かっていて、合間にDJなる人が曲紹介をしている。ラジオで聞いていたオールナイトニッポンの「ゴーゴーゴーズオン」の糸居五郎ばりの軽快な口調に心踊り感動。

なんかかっこいい。覚えているのはサンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」やフリーの「オールライト・ナウ」。
他は知らない曲だったが間接照明で照らされた店内でコーヒーをすすりながら大音量で聴くロックはたまらなく青春だったな。


🎵喫茶店に彼女と二人で入り、コーヒーを注文すること、ああそれが青春🎵


吉田拓郎が唄う「青春の詩」の世界がそこにあった。
もっとも彼女と二人でなく一人だけの青春ではあったが。
彼女と二人で入りコーヒーを注文するようになるのはもう少し経ってからでした。
今から48年も前のことです。



青春の詩 吉田拓郎

あっぽらかっぽら

生まれたのは宮城県の三方海が見渡せる田舎の町。
中学卒業してバスで2時間かかる(ちなみに船だと1時間半)小都会の高校に進学。家から遠いので小都会に下宿生活。
初めは真面目に学校通ったが3年生ともなると学校サボって街をぶらぶらとほっつき歩く日々。そんな当てもなくぶらぶらしてるのを俺の地方では「あっぽらかっぽら」と言う。

毎日のようにあっぽらかっぽらしてる俺を嬉しいことに女子中学生が見初めてくれた。
女子中学生は名前も知らないあっぽらかっぽら少年を「アッポ君」と命名
「今日アッポ君見たよ!」と仲間内でキャーキャー騒いでいたそうで、思えばその時が俺の人生で一番(唯一?)モテた時期かも?
ふとしたきっかけで後日その女子中学生に会うことになりその話を聞きなんとも嬉しかったなあ。
そしてアッポ君とは、なんともナイスネーミングだこと。
大いに気に入った俺は後年酒場のボトルに「APPO」などと書いたりしてね。

毎日のように街をあっぽらかっぽらしてたあの日々。あの自由な日々が懐かしい。
もう45年も前の話です。今俺は63歳。元々書くことは好き。好きなことを自由に書いてみたい。
一応ちゃんと人並みに仕事もしたし子孫も残せたし、これからちょっとあっぽらかっぽらとここのブログ世界を歩いてみたい。
読んでいただけるような物は書けない。読んでもらわなきゃという気持ちも無い。

でも一人でも読んでくれたらきっと嬉しいだろうなあ。
久しぶりに書くのが楽しみ、という気持ちになってます。さあ、あっぽらかっぽらしよう。